☆不定期にて更新予定

社会福祉法人桐鈴会 理事長 黒岩秩子が、入居者や利用者の方々からお話を聞くコーナーです。
理事長の軽妙な話術で、日頃あまり話されない方もついつい…。アッと驚くお宝(話)が出てくるかも?
※既に退所された方やお亡くなりになられた方も登場します。ご了承ください。

第5回「大塚悦子さん」
『ビジネス ウーマンの 走り』

(桐鈴凛々82号より 平成24年3月)

グループホーム桐の花に私が行くと「いいお洋服ですね。とっても似合います」とかコメントをくれるのが、大塚悦子さん(97歳)※2021年当時。
私はいつも、大塚さんの言葉に励まされて、おしゃれに気を配るようになった。その大塚さんがこのところ元気がなくて、朝は、いつもベッドで「夢の中」。
午後になってようやく目が覚める生活が始まって一月ぐらいたった時、夕方、お部屋を訪ねた。
「まあ! 奥さま! よく来てくださいました」とあいさつされた。「奥さま」は大塚さん独特の響き、「やめてください」と言えない、言ってはいけないとさえ思わせる雰囲気がある。インタビューを始める。よく考えてゆっくりと語ってくださる。

<Q 黒岩秩子(質問者) A ゲスト>

Q.
生まれは?

A.
小千谷で、大正3年11月29日です
父は、いわゆるアキンドでした。海産物を売っていました。私は、小千谷小学校の後、高等科を出て、家の手伝いをしていました。本を読むのが好きでした。兄たちがたくさん本を蓄えていましたから、それを読みました。そして裁縫を習いに行っていましたが、和服を縫ってお金にするところまでは行きませんでした


Q. 恋愛結婚ですか?

A.
30歳の時に結婚しましたが、相手は、海軍だったので、3年帰ってこなかったので、それを待っていたのです。幼馴染で、年は一つ上です。
恋愛結婚と言えばいいのでしょうかねえ。結婚するんじゃないかと思われるような付き合いでした」。ゆっくりと、でも正確に言葉を選んで話されます。「舞鶴の官舎に住みました。行商したいと思っていたけど、明日のことがわからない時代でしたから、しませんでした。子どもは四人産みましたが、一人は、小さいうちに亡くなりました。こんな悲しいことはありません。


Q.
大正3年生まれで30歳の時、と言えば、1944年になります。戦争の末期に結婚したことになりますね。

A.
舞鶴には、一年もいませんでした。


ここで「すこし時間をください。頭を整理しますから」と言われた時に、「お疲れでしょうから、また次にしますね」と、おいとましました。
しばらくしてから、お話を聞きました。

Q.
初めての赤ちゃんはどこで生んだの?

A.
舞鶴の海軍病院で生むという話もあったのですが、身内がいるところのほうがいいということで、新潟で生みました。その頃、兄が新潟にいたので、父も母も新潟にいて、そこが実家のようだったのです。大きなおなかを抱えて戦争中に新潟に戻ってきました。


Q.
その赤ちゃんを連れて舞鶴に戻ったの?

A.
そんな悠長な時代じゃなかったんです。生まれて、名前をつけてすぐに亡くなってしまいました。
(と涙が目に光っていました。夫君が、手紙で名前を言ってきたのだそうです。)

爆弾がいつ落ちてくるかわからなくて怖い思いをしました。舞鶴の官舎の隣に住んでいた人が、新潟県の人だったので、その奥さんと、新潟へ帰ろうという話をしていました。そのうち、終戦を迎えました。みんなで集まってバンザイバンザイと叫びました。主人は、戦争が終わって、海軍には勤められなくなったけど、幸い、人事部にいましたから、新潟県庁の付属で、残務整理をすることになりました。残務整理というのは、海外から帰ってくる人たちを受け入れたりします。あのころは、いろいろなことをしましたよ。
子どもを負ぶってその下に米一升を隠して『関門』を通るのです。米は、田舎に行って分けてもらって、それをほしい人に持っていく。そうすると着やすい着物をくれる。今度はそれを売るのです。


Q.
着物を仕入れるの?

A.
仕入れるところはないですよ。市場はあるけど、私なんかは、素人ですから、コメの代償に着物をもらうんです。稼いだ人は稼いだそうですよ。こっちも素人だけど、お客様に感謝されましたよ。私にも、お得意さんができましたから、続けていました。自分のお金で、自分の時間で、よくよくやったものと思います。


Q.
着物を仕入れるの?

A.
仕入れるところはないですよ。市場はあるけど、私なんかは、素人ですから、コメの代償に着物をもらうんです。稼いだ人は稼いだそうですよ。こっちも素人だけど、お客様に感謝されましたよ。私にも、お得意さんができましたから、続けていました。自分のお金で、自分の時間で、よくよくやったものと思います。

こんないい人どこにもいない!
主人が定年になって医師会の仕事をしていました。でも、70歳ぐらいで腎不全で亡くなりました。家に帰って書いたものを見れば、いつ亡くなったのかわかるんですけどネ。いい主人でしたよ。喧嘩なんかしたことがないし、優しいだけでなくて、きついこともありました。頼りになる人でね、こんないい人は、どこにもいないと思うほどいい人でした。


Q.
亡くなった時は、悲しかったよね?

A.
もう起きられなかったから、仕方がないと思って、しっかりしなくてはと思いました。人生に悔いはないです。


「コメを隠して『関門』を」というあたり、若い皆さんにはわからないかと思います。戦後は、法律で、いくつかの品目は、売買が禁止されていました。私の父は、岡山で、ダム工事をしていたのですが、ガソリンをほしいという人に譲ってあげたということで、逮捕されたのでした。米を買ってはいけないという法律に従って、餓死をした裁判官の話がありますね。そんな時代でした。

小千谷に住んでいた時に、斉藤美容院の方も鈴懸に住んでおられました。鈴懸のお茶会で、何十年ぶりの再会を果たしたのでした。

私は一つ大変驚いたことがありました。それは、終戦を喜んだという話です。
玉音放送を聞いた後の情景は、たいてい沈痛な表情だったように記憶しています。でも何回聞いても「バンザイ」をして喜んだというのでした。それで考えたのは、「海軍」だからかと思ったのです。日米開戦に海軍が反対していたのは、皆さん、ご存知だと思います。戦争中もずうっと反対していて、終戦を喜んだ、というのであったら、すごいなあと思ってしまいました。 大塚さんは、体力が弱くなってきていて、午後になって目覚める状態になってからは、朝食は抜きになっている状態なのに、これだけの長い話をしてくださったことに深く感謝しています。

それから数日して、娘さんからお話を伺いました。悦子さんに聞いてもどうしてもわからなかったのは、「なぜ浦佐に引っ越してきたのか?」でした。今年60歳になる末娘さんからの話でわかりました。
「父が79歳で亡くなり、その頃から母の仕事が少なくなってきました。和服用の反物を売っていたのですから。それで、小千谷の家を手放さなくてはならなくなって、私たちがいる東京に近いところがいいからと、一人で誰も知り合いのいない浦佐を探して、一軒家を借りたのでした。その時、もう80歳を過ぎていました」

浦佐の人でも、大塚さんから反物を買ったという人がいます。その人の話では、「大塚さんの品物はいいものばかり」とのことです。それから、元気な時には、東京までも売りに行っていたそうです。80歳を過ぎてから、営業のために上京するとは!素晴らしい活躍でしたね。 確かに「ビジネスウーマンの走り」でした。