☆不定期にて更新予定

社会福祉法人桐鈴会 理事長 黒岩秩子が、入居者や利用者の方々からお話を聞くコーナーです。
理事長の軽妙な話術で、日頃あまり話されない方もついつい…。アッと驚くお宝(話)が出てくるかも?
※既に退所された方やお亡くなりになられた方も登場します。ご了承ください。

第6回「カカァ天下井口ヒデノさん」
(桐鈴凛々84号より 平成24年7月)

ヒデノさんは88歳には見えない若々しい方。お部屋に入るなり、制作物を見せてくださった。手編みのセーターやチョッキ。秋に行われる街の文化祭では、ヒデノさんの作品がたくさん飾られる。

<Q 黒岩秩子(質問者) A ゲスト>


Q.
いつごろから作っていたの?

A.
子どもが小さい時に、子どものものはみんな作っていたからね。


Q.
洋服も?

A.
洋服は作らない。編み物だけ。それから持って歩くかごとか。
子どもは4人。父ちゃんは国鉄マン。だから引っ越しはたびたびで、鈴懸に来たのが12回目の引っ越し。浦佐小学校で一級上だったのが、父ちゃん。


Q.
じゃあおさななじみで付き合っていたわけね。どっちが付き合おうって言い出したの?

A.
私じゃない。父ちゃんの父親が私の働く姿を見て、嫁にこいと言ってくれて付き合いはじめたってえだ。


Q.
父ちゃんになる人のことをどう思っていたの?

A.
背が低い人だと思っていただけ。


Q.
どんなところに転勤になっていたの?

A.
相模原が一番長かったな。20年もいたからね。そこには、弟がいたから住んでいたんだけど、父ちゃんは新橋の駅までそこから通っていた。
帰ってこない日も多かったな。


Q.
まあ! ずいぶん遠いでしょ?
※多分ここらあたりが「天下」の証明になるのでは? 本人もそれを十分に認めていた。

A.
スキー場ができて、民宿を始めたら、父ちゃんは定年前10年もあるというのにやめて民宿を手伝うことになった。料理は私が全部作った。布団の上げ下ろしなんかをやってもらった。17年ぐらいして、新幹線ができたら、客が減ってしまったんでやめてしまった


大正13年、浦佐新町のしゃがん(左官)新宅に生まれた。
浦佐田町のSドン(ここらでは、屋号に「ドン」がつくと「いいうち」ということになっている)に嫁に行って、そこのうちには13人もいたから、とってもかなわなくて父ちゃんと八か月でその家を出た。
それから女の子を2人、男の子を2人産んだ。10年ぐらい前に父ちゃんが亡くなって、結婚しないでいる次男と暮らしていたけど、鈴懸に入居したから次男が一人暮らしになった。その次男が、7月5日に心筋梗塞で長岡の立川病院に救急車で入院。
この近くに住んでいる2人の娘が呼びに来るのを玄関で待っているヒデノさんに最後のインタビューをして聞かせていただいた。
次男さんが無事治りますように、と祈りつつ。(桐鈴凛々84号より 平成24年7月)