☆不定期にて更新予定
社会福祉法人桐鈴会 理事長 黒岩秩子が、入居者や利用者の方々からお話を聞くコーナーです。
理事長の軽妙な話術で、日頃あまり話されない方もついつい…。アッと驚くお宝(話)が出てくるかも?
※既に退所された方やお亡くなりになられた方も登場します。ご了承ください。
第8回「関薫司(しげじ)さん」
(桐鈴凛々92号より 平成25年11月)
《瑞宝隻光章》という賞状と勲章を天皇陛下から頂いたというので、見せてはいただいたものの、皆さんにもお知らせしたほうがいいのでは?と考えて、インタビューに行きました。
「郵便局に30年以上いたから」と言って丸い筒に入っているのを取り出して見せてくださった。 戦争中の話になったら、それがあんまり面白くて笑いどおし。何しろ戦争に行ったって、もう終戦間近になれば、鉄砲をもらっても弾はない。戦う道具などなくて、毎日が暇。していることは散歩位。戦争が終わって捕虜になっても、同じように暇ですることは何もない。香港で捕虜収容所に入れられたら、その番兵はインド人。インド人と日本人は仲が良くて、もともと物のやり取りなんかをしていた。それが、終戦で立場が逆になっても同じように食べ物のやり取りなんかをしていた。司令官のイギリス人が来たら、ぴちっとして何事もなかったように装う。
<Q 黒岩秩子(質問者) A ゲスト>
Q.
あなたは、兵隊ではどんな役割だったの?
A.
通信兵。もともと1994年9月5日に入隊した時は、新発田連隊。それからビルマに行けということになって、45年の2月に船で香港基地に渡り、基地からは飛行機も自動車もないから「行軍」と言って夜中に歩いて移動する。
昼間は寝ていて、暗くなってから歩く。通信機器があって、それを馬に積んで行ったのだけど、夜の暗い道で、馬が崖下に落ちてしまった。その時勇気のある人が沢に入って、通信機器だけを取ってきた。
Q.
毎月家に帰るということはなかったの?
A.
田植えと稲刈りに帰っただけだな。
Q.
まあ! 婿に行ってから出稼ぎを続けていたのね
A.
いや、婿に行く前から出稼ぎだ。兄弟が6人。兄と姉は皆死んでしまった。兄は、戦争に行って1週間で死んでしまった。でもそのことを知ったのは、3年たってからだった。フィリピン近くの島で死んだけど、骨は帰ってこない。位牌が来ただけ。一番上の兄は、戦後シベリアに取られて、5年後に帰ってきた。俺は、中学3年の時、学校で中島飛行機が募集していることを知ったから、そこに入ることにして中学は中退した。
Q.
馬は?
A.
中隊長の命令で見捨ててきた。
Q.
それっていつ頃のこと?
A.
1945年8月だと思う。
「行軍」で歩いたのは、3日ぐらいだった。
Q.
戦争末期がそんな状態だったなんて初めて聞きました。
戦争が終わって日本に帰ってくるときはどこに来たの?
A.
香港から鹿児島までイギリスの船で帰ってきた。
日本の船はほとんどなくなっていた。野戦病院の人が一番先、次が本部。通信兵は本部だったから早かったんだろう。
1946年2月に家に帰ってきた。
Q.
小学校の同級生のIHさんが言っていたのだけど、あなたが級長だったって?
A.
あのころは、クラスの1位から4位ぐらいまでは、中学に進学するから、その勉強のために役職はつかなかった。
進学した者は、軍隊に入っても下士官とかになる。
高等小学校しか出ないものは下っ端で、私は二等兵だった。
Q.
卒業してからどうしたの?
A.
農商青年学校を卒業して、渋谷郵便局に行った。
それから国立にある「逓信講習所」に行って、ここは給料をもらいながら勉強する、寮があって3食のまんまが出る。ありがたいところだった。
それからまた、そこの高等部にも行った。それからは事務仕事に代わった。19歳の時に兵隊に行って21歳の時に帰ってきた。
浦佐に来て、25歳で結婚。
Q.
奥さんは亡くなったのよね。
A.
脳梗塞で6年前に亡くなった。残念です。
Q.
郵便局では、その後どんなことがありましたか?
A.
千手郵便局管理者として千手町(その後川西町、十日町市に併合された)に赴任していきました。町内の方々と会合を開いたりしました。ここで定年退職しました。
Q.
鈴懸に入るという決断は?
A.
子どもたち3人から誘いがかかったのですが、ずいぶん悩んだ末、ここに来ました。結果としてはこれでよかったと考えています。