☆不定期にて更新予定
社会福祉法人桐鈴会 理事長 黒岩秩子が、入居者や利用者の方々からお話を聞くコーナーです。
理事長の軽妙な話術で、日頃あまり話されない方もついつい…。アッと驚くお宝(話)が出てくるかも?
※既に退所された方やお亡くなりになられた方も登場します。ご了承ください。
第9回「小倉幸吉さん」
(桐鈴凛々93号より 平成26年1月)
娘さんが来られて事務所でいろいろとお話を聞きました。二人の娘さんは、ほとんど家族として一緒に暮らしたことがなかったというのです。「元々口数が少ない父ですが、ほとんど父と話し合った記憶がありません」
そんなこともあり、小倉幸吉さんから見た人生はどんなだったのだろうと聞いてみたくなってお部屋を訪ねました。
<Q 黒岩秩子(質問者) A ゲスト>
Q.
娘さんが「父と話し合ったことがない」と言っているけど
A.
そうだ。出稼ぎでいなかったから、娘と話し合った記憶はないな。
Q.
毎月家に帰るということはなかったの?
A.
田植えと稲刈りに帰っただけだな。
Q.
まあ! 婿に行ってから出稼ぎを続けていたのね
A.
いや、婿に行く前から出稼ぎだ。兄弟が6人。兄と姉は皆死んでしまった。兄は、戦争に行って1週間で死んでしまった。でもそのことを知ったのは、3年たってからだった。フィリピン近くの島で死んだけど、骨は帰ってこない。位牌が来ただけ。一番上の兄は、戦後シベリアに取られて、5年後に帰ってきた。俺は、中学3年の時、学校で中島飛行機が募集していることを知ったから、そこに入ることにして中学は中退した。
Q.
中島飛行機は、戦闘機を作っていたのよね
A.
そう。だから、終戦の日を3日過ぎてやめて家に帰ってきた。家で農家の手伝いを5年して、兄が帰ってきたから、出稼ぎに出た。中島飛行機の頃が懐かしい。一番いい時代だった
Q.
給料がよかったの?
A.
月5円だった。まあいい方だったな。社宅で、3食出たから、5円は丸々小遣いだった。食事が少なかったから、道端で売っているサツマイモを買ったり、友達や先生との手紙のやり取りに使ったり、たまには映画を見に行ったりした。
Q.
どんな映画を見たの?
A.
「生きる」っていうのを覚えている。
Q.
あれは志村喬のね。戦後だったと思うけど。戦争中はみんなは大変だったのでしょう?
A.
いろいろなところにいったな。愛知県の知多半島、石川県の小松、群馬県の太田。俺の年から、志願して戦争に行けたけど、俺は、中島飛行機にいたから、志願しなかった
Q.
それで出稼ぎはいつまで行っていたの?
A.
よく覚えていない。妻が45歳の時亡くなったけど、その後も出稼ぎに行っていた。千葉だよ、日雇いだ。その時の年金で、鈴懸に支払っている。 15歳〜18歳までが、中島飛行機、18歳〜23歳まで農作業手伝い、23歳〜出稼ぎ、27歳で結婚。一人暮らしをしているときに、娘たちが鈴懸を見つけてきて誘ってくれた
Q.
鈴懸に入ってどうだった?
A.
よかったよ、何でもよかった。小林さんには一番世話になっている。
Q.
森山里子さんは?
A.
さんざん世話になった。
Q.
小倉さんは畑をしてくれて、その作物のおかげで鈴懸はずいぶん助かったよ。野菜が安く上がった分、さしみとかぜいたく品が食卓にのったものね。10年ぐらい畑をしてたかな?
A.
もっとだ。ここに来て14年になる。(畑を)辞めたのは2年前だからな。俺は、鈴懸に一番先に入ったんだ
Q.
鈴懸に入って親しくなった人がいた?
A.
FMさん。そのうち認知症がひどくなって自分の部屋がわからなくなってしまったから、本田病院の施設に行ってしまった。
このことがあって、隣に認知症対応の桐の花を作ったのでした
Q.
あの時一緒に入った人がもう9人になってしまったね。鈴懸の食事はどうだった?
A.
自分で作っていた頃のほうが好きな味にできてよかった。中央病院に行ったときはヤダったな。治らないって言われてしまった。前にも食道がん、舌がんで2回手術をしている。食べ物がまずくて食欲がない。飲み込むとき痛いから、今はミキサー食にしてもらっている。
そんな状態で体力が落ちて、口が渇いて話しづらそうだった。それなのに「おれはしゃべらないほうだから」と言って「孤高の人」で通っている小倉さんが、思いがけずたくさん話してくれてとてもうれしかった。 近くに住んでいるOさんと、薬局で知り合って行ったり来たりもしていたけど、今は具合が悪くなったようで、どうなったか分からないと心配そうでした。(桐鈴凛々93号より 平成26年1月)